自刻像やモデル首像は割と好きな課題でした。石膏像の頭部模刻と違うのは何と言っても制作する対象が「生きている」ことです。
形だけでなく「生命感」や「精神性」を表現していくことに醍醐味があると思います。制作時の自らの感情も重要です。
浪人時大事にしていたことは、全体像を短時間で直感的に土付けを展開し、量的空間的印象を一気に近づけてから、内部構造(筋骨)に影響を受けた皮膚表面の起伏を、減りと張りを意識しながら探りを「置いていく」ことでした。つけた粘土は極力触りすぎず、つけた時にリアリティが最も生きるよう心がけました。
これは木炭デッサンで言うところのいじりすぎて炭の冴えがなくなるのと同じで、粘土もいじりすぎると魅力がなくなってしまいます。
↓基本粘土は置いていく感じで。

なぜそのような捉え方になるかというと自分はまだ予備校生であり、単純に実力不足すぎる中、感じたリアリティの鮮度をできるだけ殺さないようにするためです。
仮に見えている起伏を全て再現しようとして実際の皮膚の表面のようにピタッとするまで探ってしまうとむしろ理解不足の方が先に見えてしまい、急に嘘くさく感じてしまいます。(見えたようにつくっているつもりでも本当の意味では分かっていないので実際嘘を言い切っているような感じになってしまう。)
それならむしろ感じて出した答え(つけた粘土)を無駄に触らず、つけた粘土にリアリティの痕跡を託した方が良いのではないかという考え方です。(特に試験時間は6時間なので実際を写すのは無理だと考えます。)
しかしそのような考え方も予備校までで、大学以降は未完の美で済ませていても仕方がないので時間をかけて追求し切っていくことに変化していきました。
↓予備校では直感的な土づけが魅力の一端を担った。

↓形の理解が深まってようやくつくり切れるようになった。

↓髪の毛の表現は難しい。質感を量に変換して表現していく。
慣れは必須。でも浪人時は結構適当だった。作り込まない感じだったので重要視してなかったように思う。


↓浪人時初期の自刻像。形の張っているところはかっちりと。そうでないところは粘土の質感を生かして自然な見え方に逃がしている。

↓動きが強いポーズが好きだった記憶。耳も瞼も作り込むと言うより量で「置く」感じ。全部ボリュームで表現。

↓1浪後半の自刻像。強い表現を目指す。


↓友人像。塊感の強い骨格。厚みのある表情。髪型も含め、量で置き換える作品性に合っていて良い。
彼は理数系の人で、彼との話の中で僕が「携帯の液晶が鏡みたいにになる機能があったらめちゃくちゃ売れそうじゃない?」って言ったら、「それはコストがかかりすぎるから裏に鏡貼り付けた方が早いよ。」と一言で論破された思い出。
今ではスマホのカメラ機能を鏡みたいに使っている人をよく見ます。テクノロジーの変化は目覚ましいですが、彫刻は常に変わらず基礎が重要です。



その後大学でも人物を作り続け、卒業後もずっと。
肉体としての人体彫刻には今更興味はないですが、自分の意識や感情を人の形に重ね合わせて表現することに無限の可能性を感じています。
人体彫刻はやり尽くされている。とよく言われていましたが、そうでもないですね。どんなにつくっても終わりが見えません。死ぬまで終わりは見えなそう。
次回は1浪終盤のデッサンについて書いていきます。