昨日の新聞に、加藤唐九郎(近代の天才陶工)の言葉が載っていました。
一部抜粋すると。
唐九郎は晩年、人間の欲というものを見つめた。人間は欲で肉体・生活・地位を維持している。
〈人間は欲念を捨てることができんようにできておる〉
〈自己の欲望を満足させようとすれば、相手を傷つける場合が多い〉
食欲一つとってもそうで、生きるために動植物を食らえば相手を死なせ傷つける。
では救いはないのか。唐九郎はそこに芸術の価値をみた。
〈芸術は相手に関係なしに、自己の欲望だけを空回りさせて、そこに満足を見いだす。…人間の欲望を芸術が救ってくれるのじゃ〉といった。
というものでした。
確かに…。彫刻や絵画なんかを通して内の世界を解放させることで、何物にも代え難い喜びを得ることが出来ます。
ただ、それって描いてつくってハッピーっ♪っていう単純な話ではありません。
まず必要となるのは、表現したいと思ったその世界観がどれだけ自分自身の持つ本質に近いものであるかということ。その掘り下げが不十分で、感情の浅い部分をさらっているだけの表現であったなら、それはただの線や色、塊に過ぎないのです。
もう一つ必要なのは、深めた感覚をより具体的に(より明解に)形に置き換える技術です。徹底して凝縮した密度感であれ、ぼんやりとした曖昧な表現であれ、イメージに近づいていく歩みが無ければそれはただの惰性に過ぎません。
そういう意味で、しっかり技術の基礎を学び、表現したいと思ったものに可能な限り作品を近づけていく力をつけることも重要なことでありますが、逆にそういった技術を学ばずに、なにかを表現したいという感覚を爆発させて、その勢いだけで形にしてしまうのも、本質を貫く表現手段の1つあるのは確かです。マンガやアニメなどの模倣が始まる前の子供の絵や工作、アウトサイダーアートや知的障害者の絵画なんかはまさにそれです。
彼らは「表現する」という行為への捉え方がものすごく純粋です。周囲の評価やセオリーとしての技術にとらわれることなく、素材に対して感情を自由に解放しています。
理論や哲学を超えた(あるいはそれ以前の)個としての感情表現がそこにあるのです。
ただ、それだけで歴史にのこる作品になりうるかと言うと、そういう訳ではありません。人の心を動かすだけの作品をつくりだすには、自分と向き合うだけでなく、社会とも向き合わなければなりません。
基本的には自分自身の世界観を主軸におくべきなのは変わりませんが、さらに取り込むことの出来る要素が他にもある、ということです。
それはもしかしたら歴史から学べるかも知れません。僕等は生きている限り常に歴史の最先端にいるわけで、すでにスタートラインを大きく超えています。それは過去の人々による成果の積み重ねによって成り立っているのです。過去を知ることによって初めて未来をつくりだせるのです。
さらには世界のレベルを知ることが大切です。結局は上には上がいるということ。自分のレベルの低さを知ることで、次は必ず今より質の高いものがつくれるはずです。
そういう意味で、1人の個人がもっている感覚だったり、発想だったりって、そこまで大したもんではないなぁと感じます。人間の可能性って、無限大であってほしいのは理想ですが、みんながみんなそれを発揮できるものではないですから。
成し得たことがすべて自分から発生したことだと思ったら、それは驕りであるとおもうし、大きな勘違いです。
1つの成果の裏には、いろいろな事物の助力があることを忘れてはいけないのだと思います。
途中からかなり話題がそれてしまいました~。
さっ今日はもう何もしないぞっ!コタツでゴロゴロしよっと(笑)
明日も1日仕事頑張ります!